2011/09/01

高沢さん、安らかにお眠りください

以前、お話を伺った、
高沢義人さんが、ご逝去されました。

2009年4月、千葉のご自宅にて。
宮古での兵隊の生活について
熱を込めて、語ってくださった、高沢さん。
・・といっても、高沢さんがご逝去されたのは、
実は、1月28日でした。

私は、数ヶ月も、これを、知らずにいたのだ。
高沢さんをご紹介下さった
知人から、ご連絡いただき、
ようやく、知った。

高沢さんとは、今年もお年賀状の
やり取りをさせていただいており、
まさか、そのすぐ後に、そのような事に
なっていたとは・・。

高沢さん、数ヶ月も
知らずにいた私を、どうぞ許してください。
ごめんなさい。
もっと、もっと、お話をお聞きしたかったです。


高沢さんは、補充兵として、約3年、
宮古島で任務を果たされた。
その際のお話は、相当にすごいものであった。

高沢さんが、お話中、
何度も、おっしゃったのは、
「宮古島には、
約2万人の日本兵が行ったが、
その約5500人が、餓死です。」
という言葉だった。

「日本軍の方針は、
医療・兵器・食糧など何も持って
行かずに上陸して、
略奪して、人を殺す。
そういうことを、繰り返していたんです。」と。

(※ 各戦地で、
「食糧の補給もなく、飢えで苦しんだ」話。
「現地住民から、食糧を略奪した」話
前田は、今まで、いくつも、聞いてます。

当時の軍の方針として
「現地調達」が、
方針とされていたようです。
今思うと、国の作戦として
大変無謀です。
兵士達は、
自分たちの食糧は
「現地で畑を作る。」
「現地で奪う。」等、強いられた。)


充分な食糧計画もないまま、
食糧の補給もされないまま、
兵士を各地から、
上陸させる。
当然、
飢えで、
病で、どんどん
兵士が死んでゆく・・。

高沢さんは言う。
「宮古島の人たちは
最初、兵士が来る、と聞いて
米軍から守ってもらえる・・
そう言って、喜んでいたそうです。
でも、実際上陸したら、
逆だった。
兵士は、住民に助けられたんです。
食糧も何も、
持っていないのだから・・。」
当然、それは、島民の分までを
兵士にあてがう事になる。
島の人たちも、飢えた・・。

そして
高沢さんは、衛生兵だったから
毎日毎日、死体を焼いては埋めることを
任務としていたのだという。

「でもなかなか、焼けないの。
当然、助燃剤もなにも、ないんだから。
バーナーで一体焼くのに、半日から
1日はかかる。
死体がどんどん運ばれてくるから、もう
死体の山ですよ。
中にはまだ、虫の息の者もいるのに、
兵隊達が面倒くさがってね・・」
3年間、毎日この任務をした、高沢さん。
いろいろ感じるのは、最初だけで
日々の中で、もう、何も感じなくなるという。

もちろん、みんな、終始、飢えていた。
みみずも、蛇も、蛙も、
とにかく食べれるものを、
飯ごうの中で煮て食べて、命をつないだ。

「私は兵隊は食べませんでしたが・・。」

皆さんは、ご存知でしょうか?
出版されている
旧・日本兵の戦時の回想録には、
兵士の遺体を食して、飢えをしのいだ例は
数多く、記されている。

・・上記、思わず、眉を潜めたくなる。
が、
死への危機を目前にした、飢えと渇き。
命の危機に、直面したとき、
人間がどういう行動に出るのか? 
それは、今、机の上で考えて、答えの出る
ものではないのだろう・・。
もちろん、
先の戦争の時代の人たちが、
とくべつに、凶暴だったりした、
そんな訳も、あるはずもなく。
「戦争は、人を追いつめる。
人を変える。
人を、人でなくす。」
私も、あなたも、同じ状況にあえば
同じ苦痛のなかで、もだえ苦しみ、
変わっていくのでしょう。


だからこそ、高沢さんは、伝え続けてきた。
凄惨を極める、戦争の実態を。
戦争の愚かさを。

高沢さんは、戦後、
夜も寝ずに、徹底的に考えたという。
「なぜ、戦争は起るのか?」を。
そして、悟る。

「一部の、利益を得る人のために
戦争が、起こる。」
そして、反戦を
一貫して訴えてこられた。

以下は、高沢さんの句だ。

「補充兵
われも飢えつつ
餓死兵の骸(むくろ)焼し
宮古(しま)よ八月は地獄」


高沢さん追悼の記事(宮古毎日新聞 2011年2月8日)


人間を、人間でなくす、戦争。
私たちは、もう2度と、繰り返さないように
学び、模索を今、続けて参ります。
今は、戦争こそ起っていないですが
原発の事故により
私たち日本人の生活が、未来が
脅かされている。
今こそ、みんなが繋がり、
本当の意味で助け合って
問題解決に、励んでいかなければ
なりません
今後とも、
微力ながら、励んでまいります
高沢さん、どうぞ、安らかにお眠りください
本当にありがとうございました。