2011/08/23

被爆者「脱原発」を訴え。

 原爆投下より、66年目の夏。
広島で、被爆者の眞木 淳治さん
のお話を聞いた。
眞木さんは精力的に
学校等で、原爆の
語り部を続けておられる。
  
以下、インタビュー概要です。

☆☆☆☆☆☆  被曝者として、後悔。☆☆☆☆☆☆☆☆ 

眞木さんは、こう切り出した。
「今まで、原発は、
核の平和利用ということで
別の問題だと、思っていた。」
冒頭から、滲み出る、悔しさ。
「後悔している。」
「被曝者として、
なぜ、今までもっと、深刻に考えなかったか・・。」
語尾が弱々しく小さくなるが
そこがかえって、
「もどかしさ」を鮮明に、伝える。
 
広島原爆の被曝者
眞木さん
 眞木さんは、とうとうと、語り続ける。
悔しい思いが、口の端から、あふれ出るように。

「今まで、政府側の主張を、鵜呑みにしていた。
原発を推進するための
都合のいいデータで世論を
誘導して、こういう事態に
持ち込まれた。

(原発事故以来、さまざまな
事を、調べなおしたが)
知れば知るほど、欺かれた思いだ。
つまり、原発の政策を推進
してきた、国会議員・
官僚・電力会社・産業界、
いわゆる、「原子力ムラ」の人たち。
つまり、利権に絡んできた人。
この人たちが、国民を欺いてきた、と
今、私は思っている。


アメリカの原爆の技術を使って
原発を開発し、
「平和利用」「(戦後の)復興のために」と、
日本の原発政策を、進めた。
 自民党政権が
それをまる飲みし、危険も省みず、
この狭い、地震の多い国に、
54基の原発を作った。


広島では、こんな事もあった。
過去に、広島テレビが、
「原発の危険性に関する、ドキュメンタリー番組」
を作り、放映した事がある。
が、その後、電力会社が「スポンサーから降りる」
と局に、圧力をかけた。
結果、番組制作者たちは、飛ばされた。
それ以来、テレビで原発の話は
タブーになって、今に続く。 

(※ちなみに、上記の番組、以下で見れます。
「プルトニウム元年」1992年 広島テレビ )


「日本も、核武装しよう」という声が、あります。
私は、子どもたちに話すとき、
「将来、日本が戦争しよう・
核武装しよう。」となったとき、
(たった一人でも、)絶対にダメ、
絶対にNO。と言える人になってほしい」と
「私の最後のお願い」として、伝えています。

今回の原発事故で、よりはっきり
分かりました。
人類は、核とは、共存できない
たとえ、平和利用でも。


今、この状況を、なんとしても
みんなの声で、変えていかなければならない。
私は、今まで以上に、「語り部」をして
真実を伝えていかなければならない、と
思っている。

自分が体験したような、ひどい時代は
2度と、きてはならない。
私の孫、今の子ども達に
あんなひどい目(原爆・被曝)にあわせてはならない。
そして、もう2度と起こらない為に、
みんなで考えていきたい。 

眞木さんの、講演の台本。

最近、ある大学で、私が話をしたら
1人の学生が
「原発をなくしたら、電力が止まってしまう。」
と言った。

それこそが、推進する側の言い分であり、
本来、本気で取り組めば、
地熱・風力・太陽熱で
ある程度は、確保できると思う。
そして、みんなが今一層の節電を心がけ、
真剣に考え行動したら、いつか、
原発をなくした社会は、成り立つ。

 何より、
「なくして行く方向に持っていく努力」
が大切だし、「国民の安全」を考える
ことが本来の、国のあり方のはずだ。
私は、そう信じている。

  
過去に戦争があったとき、
私は子どもで、洗脳されていた。
先生や大人の言う事を純粋に信じ、
「がんばれば、戦争はなくなる」と、思い込んで、
やっていた。(戦争を応援していた。)
  

ここで、思わず前田、口を挟んでしまった。

「眞木さん。・・
その構造は、もしかして、今も
同じ・・・ですか?」

眞木「はい。 変わりません」

こみあげる想いがあったのだろうか、
最後に早口でそう言った眞木さんは
急に、勢い良く、席を立った。


 広島原爆の地獄を体験し、
戦後の焼け野が原の日本・
そこから繋がる、日本の復興。
その経緯を、生き抜いてきた眞木さん。
眞木さんは言う。
「私のした体験を、もう誰にもさせたくない。
させては、いけない。」
  
より一層、語り部の活動に
力を入れていくと話す、
眞木さんの細い肩を見て、
私たちが向かう方向を、考え込まずにはいれなかった。