今、東京から友人が、休日を利用して
香川に帰ってきている。
●スーパーに、食糧が、不足なく、並んでいる!!
●地震(余震がない!)
・・・・と、驚いていた。
「東京では、1日に、地震・余震が、15回くらい
あったりする。 落ち着かないよぉ・・。」
と不安そう。
香川では、今回は地震の影響は
まだ見られない。
今、困難なときを迎えている方が多い中、
改めて、恵まれていることを
痛感させられる(T T)
2011年、3・11以降、日本では
当たり前だった幸せが、当たり前でなくなってしまった。
放射能に対する不安は、みんなの中で
形のない、もやもやを産んでいる状況だ。
私は今日一日、ある映像編集に、
かかりきりだった。
そうして、今日つくづく思った。
「ピンチは、チャンスに変えてこそ、意味があるのだ!
変えていこう!」と。
きっかけは、ある訃報が、届いた事だった。
その方は、井上わこさん。
盲目の演歌歌手、といわれた方だ。
先日の
3月16日未明、わこさんは、他界された。
わこさんとは、2004年に、
新潟の中越地震が起こった際、
「中越元気村」で、出逢った。
「中越元気村」とは、
当時、現地で立ち上げられた、
ボランティア団体であり、
被災者の、より快適な生活再建のため、
市や,他団体と連携して動き、
市民の立場に立った、
貴重な、支援活動を、行っていた。
内容は、
「身体的・物理的な支援」以外にも、
楽しいイベントを企画したり、
被災者が、少しでも、安心して
心を休めていただけるよう、
「見えない部分~心~
の、支援」も、大切にしていた。
わこさんは、ボランティアで歌を歌うため、
新潟の、中越元気村を、訪れた。
井上わこさんは、最後列の中央で、サングラスをかけた青いドレスの女性。 (前田は、最前列の左端に・・おいおい、大きく写り過ぎだって ^^;; ビデオ撮ってると、あまり気が回らない ><: 結構いつもの事 汗。) |
ここで、井上わこさんについて、
少し、触れたいと、思う。
わこさんは、34歳のとき、
車の追突事故に遭い、
両目の視力を、失ったといいます。
当時のわこさんは、
じょじょに失われていく視力の恐怖に
耐えられず、毎日のように
お酒を飲んでいた、といいます。
そのうち、朝から飲まなければ、
両手が震えるようになり、
酒にすがる日々が続く。
そして、「アルコール中毒」と診断された。
先の人生に、全く希望が持てず、
自殺未遂もした、という。
・・冬の海に飛び込むも、
真冬の釣り人が、決死の覚悟で飛び込んで
助けられる。
そして、また、酒を飲む。
ときには、泥酔して、警察に
お世話になる。
そんな繰り返しだったという。
親御さんはとうとう、「精神病院」に
わこさんを入れたという。
ある日、わこさんは、病室のラジオから
流れる「人生」という「演歌」に稲妻を受けたような、
「感動」を、覚える。
「演歌」などほとんど聞いたことのなかった、
それまでの、わこさん。
「演歌」を習うため、歌の教室に
通い始めるようになる。
わこさんは、変わっていった。
先生につき、とうとうCDを出すまでになった。
わこさんは、歌を歌う活動とともに、
あることがきっかけで、募金を集めるようになる。
「盲導犬」募金だ。
「盲導犬」は大変高価であり、
必要としている人でも、なかなか手にする事が
できない。そんな現実を知った。
「困っている方々に、盲導犬を
プレゼントしよう。」
そうして、歌手デビュー以来、わこさんの
「老人ホーム・障害者施設」の慰問訪問活動は
350回以上(※2008年3月までのカウント数)を数えた。
(すごすぎる・・)
私がわこさんと出逢った、
2005年。
「18頭まで購入して、プレゼントする
事ができた。目標は20頭目指してるの」と
おっしゃっていた。
(先ほど、わこさんに関する記事をネットで
探したところ、20頭は軽く越え、
23頭を達成した事が分かった。
いやはや、ものすごい事だと、恐れ入った。)
2005年、わこさんは
新潟の中越地震で、
家が壊れたり、失った方々を訪ね
「歌」をプレゼントされた。
ご自身が辿ってこられた人生の話しを
随所に、ちりばめ語りながら・・
視力を突然失ったときの話、
自殺未遂をしていた時の話を
笑いとともに、語る。
大切なものを、一瞬に失くされた、
被災者の、おじいちゃん・おばあちゃん達は、
この日、
わこさんの、大きな黒いサングラスと、
「アハハ」と大きく笑い、歌う、
赤い口紅の、大きな唇を、
くいいるように見つめ、
歌声に、心を預けていた。
・・わこさんの凄さは、ここでは、終わらない。
なんとこの日、
わこさんは、手編みのマフラーを
500枚弱、持参してこられた。
この日に間に合わせるため、
徹夜して、一夜で7枚も、編んだという。
最初は、全く見えない自分には無理、と
思っていた、マフラー編み。
「やれば出来るんですよねぇ!」と、
大きな声で笑った。
この日、わこさんの歌と、語りに
勇気づけられたのは、被災された方ばかりでは、ない。
中越元気村に全国から集っていた
若きボランティア・スタッフ達も、この日
とてもいい表情をしていた。
前田は、当時、あるNGOの、「緊急支援担当」
を担っており、
「中越元気村」に滞在させていただき
できる支援を共にさせていただいたり、していた。
この日は、ビデオで記録係を、していた。
忘れられない思い出となった。
来週、広島で、
「井上わこさんを偲ぶ会」が、行われる。
この会にあたり、
生前のわこさんの映像や写真を
欲していると、連絡が入ったのだ。
早速、記録を探し出し、今日急いで、編集した。
DVDを、明日、送ろう。
わこさんは、優しい方だったから、
16日の天国に行く直前
きっと、今回の地震の事を
考え続けていたのでは、と思う。
わこさんの最後の心残りは、
「歌をプレゼントしたい。
マフラーを編んで、持って行きたい。」
だったかもしれない。
わこさん、想いを繋いでいきますね。
わこさんに、恥ずかしくない、生き方をしなければ。
たった3日間、
新潟でご一緒させていただいただけの、ご縁。
でも、
たいせつな事を教えていただくには、
充分な時間だった。
豪快ともいえる、わこさんの魅力と生き様に、
出逢った方は、すぐに
メッセージを、受け取ることが、できる。
それだけ、全力で生きておられたのだ
と、そう思う。
わこさん
本当に本当に、おつかれ様でした。
天国で今頃、きっと、歌っているのでしょうね、
今は、被災地に向かって・・。
わこさん、私たち、がんばるよ。
井上わこさん 公式サイト
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